私の父は、海軍上がりの叩き上げだった(らしい)。
あまり良くは、知らない。ほとんど話をしたことが無かった。
ずっと学生の間は、共に暮らしていたんだけれど。
知っているのは、昭和2年3月3日に生まれ、今84歳。長崎で生まれ、爆弾の後、
両親が疎開しているのも知らず、3日間も捜しまわって、少なからず被爆もしている(かもしれない)。
そんなことも、今、母から初めて聞く。
だから、自分の福島行きを、えらく心配していたのか(全く自分は平気だけどね)。
子供の頃の記憶では、必ず晩ごはん時に、父は家にいた。そして、趣味はオーディオ。
自分で作った小さなスピーカーが、二段ベッドにくくりつけられていた。
交響曲からムード歌謡まで、とにかくなんでも鳴っていた。床が抜ける程のレコードの山。バイオリンも、聴いているうちに覚えたくらい、いつもかかっていた。
幼児の頃は、だから簡単に、弾けるようになったんだと思う。
父と息子だから、多少キャッチボールなどもした。印象深いのは、ドッジボールに、ナックルをかけて投げてきた。
いまでも自分に出来ないから不思議なままだ。プールで、背中につかまって泳いでもらったのも、考えてみたら難しい。やろうと思っても出来ないと思う。もしかして、足ついてたのかも。まあ、海軍だしな。
酒も、煙草も、女も、博打も、夫婦ゲンカも見た事がない。とにかく母命。
母を怒らせたら、容赦ない父の仕置きが必ず待っていた。
いつだったか、楽器のケースを手を滑らせ、落としてしまった事があった。
ドキドキしながらケースを開けると、なんと!指板(指で押さえる黒い所)が外れていた!ショック!
そしてマズい事に、すぐ側に父がいた。「こんな大切なものを、粗末にしおって!」とばかりに、その指板をひろいあげ、なんと指板でぶん殴られた。
黒檀だよ〜かたいよ〜。
妹であれ同じで、断末魔の叫びに、二階で怯えたものである。
大学を修了し、「自分の金で、一人暮らしをしたい。」と申し出た。引っ越しは手伝ってくれたが、「出て行くなら、戻ってくるな」と、それから二度と家に入れてもらえなかった。
そんなに前の事ではないが、頑丈な身体のわりに、ちょくちょく入院するようになって初めて、少し話した。
それから少しずつ、誕生日とかに。
勿論、公演には必ず招待している。喜んでくれていればいいなと思う。
あと数時間で、母の誕生日になる。
母は一生懸命、父の手を握っている。
トムさんには、「しっかり親の手を握ってやんなよ。」と言われた。
未だ、照れくさい。握って、あとはママのだから。
父の手を握りながら、いつの間にか母は眠っている。反対側の手を、しばらく握ってみる。
無事に、めでたく誕生日をむかえた。よく頑張ったな。本当なら、先週末のはずだったから。
昼過ぎに、母がトイレに立った隙に、いつの間にやら静かになった。自分もいたのに気付かなかった。
親父らしいな。御疲れさん。
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